『さきこら』(元祖)に掲載していったモノです。
確か小学生の頃だったか、
学校の社会見学ということで逓信博物館という所に行った。
もう20年程前なので、はっきり記憶にないのだけども
確か「大昔の伝達手段」みたいなコーナーがあり、
なにやら原始人らしい人々が太鼓を叩いている絵が展示されていた。
山火事か何かを知らせていたのであろうか。
原始の時代は声の届かない距離は太鼓や何かを打ち鳴らして
信号のように伝えていたらしい。
(原始時代に太鼓作れたの?といった疑問は小学生の頃は湧かなかった。)
その後打楽器だけでなく、弦楽器やほら貝の様な管楽器も発達し、
緊急時だけでなく、「猪捕れたぞー」なんていううれしい時や、
お祝いや、お祭りごとなどの時に楽器が使われていったそうだ。
人が「感情を楽器で表現し始めた」瞬間。
それは「文化」の誕生とも言えるのだろうか。
ところで私たちが小中高と学校で学んだ音楽はどんなものだったろう。
童謡や世界各国の民謡、最近は歌謡曲まで教科書に載っているそうだ。
(ここで印税の事など想像してしまった自分も悲しい。)
私自身は教科書に載っている曲などは
あまり興味がなかったように思う。
合唱などやられた日にゃ音痴ばればれが嫌で、斜に構えていたっけ。
しかも譜面どうりに歌ったり、
演奏したりしなくてはいけないというのが、
固っくるしくてあまり性に合わない。
そんなんで音楽(学校の)が嫌いになったりするひとも多いのではないか。
なんかストレスが溜まるのである。------なぜか??????--------。
「音楽」はそもそも「コミュニケーション」だったのではないかと思ってみる。
それを誰かに演奏させてそのできばえ云々が評価される。
作品が対象ということなのだ。
小説家やエッセイストみたいな感じである。
でも音楽は「聴く」という受動的行為よりも、
「やる」という積極的行為のほうが、俄然楽しい。(と思う)
「トムソーヤの冒険」を読むのもいいが、
自分が実際に山や川を探検していく方がワクワクする。
つまりリアリティである。
山登りも川釣りも自然との対話であろう。
演奏とは音による対話ではなかろうか。
自分との対話、共演者との対話、そして聴いてくれている人との対話。
音なんてたったの12個。
その組み合わせで伝えられる事は無限である。(んー深い)
世界最小単位の言語。
それをマスターするのはいつになるのであろうか。(んー辛い)
でもやめられない。
学校でも作曲家の事ばかり教えないで、もっと演奏家のことや、
演奏それ自体の楽しさにについても教えればいいのにと思っている。
君は「ド」で、君は「ミ」で、君は「ソ」で君は「シb」、
せ〜ので「じゃぁ〜ん」・・イカス〜!…みたいな。
算数のテストできなかった悔しさを音で表現してみよう!みたいな。
でもそんなことすると、ミュージシャン志望が激増して、
世の中にフリーターが蔓延して、日本経済が危うくなるか?
一億総ミュージシャン宣言なんて、やばいやばい。
やっぱりこんなやくざな商売は一部の変わり者に任せておけばいいのかも。
「趣味でやるのが一番幸せ」ということで、
ア・ミューズの会員さんは幸せです。(か?)
つづく。