2012年02月14日

過去の遺物

7〜8年前のHPにUPしていたコラム(元祖さきこら)を
一部のマニアックなファンの要望もありこのブログ上に再度UPしました。
さすがにネット上からは消えていたのでPCのメモリを検索しまくりました。
今読み返すと街頭露出プレイのようなこっぱずかしい文章ですが
お暇なら読んでね黒ハート
なお時代を反映している部分は今読むと確実に『スベって』しまう危険性があるので
足元に注意して読んでいただけると無傷で読破できるかと思います。
また当時と状況が変わり誤解を与えてしまう点は(※)により注釈を点けました。
posted by 網 渦男 at 14:38| Comment(0) | TrackBack(0) | コラムの過去ログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第8回パーティーを終えて

第4回のア・ミューズメンバーズパーティーを無事に終えることができた。
毎回の事だが参加して下さった会員の皆さん、見学にいらした友人、ご家族の皆様、

そして当日まで準備や雑用に奔走してくれたスタッフの皆には

本当に感謝の気持ちでいっぱいである。この場を借りて御礼申し上げたい。
さて今回のパーティーを終えて色々なご意見、感想を頂いた。

中でも多く頂いたのが「生バンドと一緒にやるのは難しいけどすごく楽しい」とか

「もっと他の楽器の人と一緒に演奏してみたい」といったコミニュケーションに対しての

積極的な欲求であった。これを聞いて私は本当にうれしくなった。



そもそも普通の人が「楽器をやりたい」といっても2つのタイプがある。

一つは人には聴かせたくなく自分が納得いく演奏ができればいいという自己満足型タイプ。

もう一つはいつか人前でかっこよく演奏してみたいなぁという自己顕示欲が強いタイプ。

一見前者の方が謙虚で奥ゆかしく後者が目立ちたがりでずうずうしいように思えるが、

どちらが上達するかという点で考えてみると、私の経験上後者である。



「人には聴かせたくない」というのもプライドだし、「人前でいいカッコしたい」

というのもプライドかも知れない。しかし、前者は「これくらいでもいいや」と

自分に言い訳が聞くのである。自分の演奏も人からも評価されないから凹みもしないが

反省もぬるい。それに対して後者は必ず人前で自分の努力の結果が露呈される。



    言い訳は聞かないのである。



そもそも音楽は他人と比べるものでもないが、

他人から「良かったよ」と言われれば「いえいえとんでもない」などといいながら 



 内心かなりうれしいであろう。 



たとえミスばかりの演奏であってもその一言の賞賛や励ましが

どれほどその後のバネになるかは計り知れないものがある。

また同様に努力した人の気持ちも痛いほどよくわかるであろう。



自分の演奏に納得してる人など少ないのではないだろうか?

それでも今の時点の自分を表現していく。この勇気に聴く人はみんな

    「よくやった」

と賞賛の拍手を贈るのであろう。



 演奏者として人の気持ちがわかるようになると、

音を通して気持ちを通じ合わせたくなるものだ。

楽器を自分の為の「おもちゃ」から人とコミニュケーションする為の「道具」として

使うようになってくる。ココまで来ると音楽は本当に楽しい。

音楽本来の使命であり、楽しみ方である。

言葉でなく聴く人の、共に演奏する人の心の琴線に触れていく。



今回のパーティーでそこまでの欲求が参加した皆様の声から聞くことができ、

本当にうれしかった。ア・ミューズやってて良かった(笑)と思う瞬間である。



おまけ 

 今回のパーティーが赤字だったので通信講座でも始めてコヅカイ稼ぎでも

しようかと思ってます。Web de Saxもやってるけどみんな見てんのかなぁ?

え?だったら更新しろって?はいはい近々執筆再開いたしますので

なにか取り上げて欲しいテーマがあったらBBSにでもカキコしてね!



                                      つづく。
posted by 網 渦男 at 14:37| Comment(0) | TrackBack(0) | コラムの過去ログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第7回 トマトと縄跳び


私、リズム感全然無いんですけど、大丈夫でしょうか?」

レッスンをやっているとそんな事をよく聞かれる。

「リズム感の無い人間」というものは果たして本当にいるのか?

私は以前真剣に考えたことがあった。初めてレッスンを生業にし始めた頃のことである。



全くの音楽の初心者という人はほとんどいないはずである。

たいていの人は幼稚園や義務教育ですでに音楽には親しんでいるはずだ。

幼稚園や小学校の先生がはちきれんばかりの満面の笑顔で

「は〜い、みなさんメダカの学校歌いましょうね〜!」
「ハ〜〜〜イ!!」(モチ挙手付きで)

な〜んつってだいたい「さん、はい!」で入れたんではないだろうか?

これは立派なリズム感であると思う。厳密にはテンポ感と言おうか。



また、人間は両足に障害がなければ大抵は右足と左足を同じテンポで交互に

前に出して歩いている。しかもメトロノームなんぞは無しだ。



リズム感にはその土台として
「テンポキープ」が必須だが(キンポテープではない。)
これはほぼ万人が持っているのではないだろうか。

問題はその一定のテンポを「細分化して認識する」能力をいかに高めるか

と言う事になるのではないか。

ズバリ言えばこれはトレーニングと発想の転換しだいで何とかなるのである


先程の「メダカの学校」を例に取れば「めーだーかーーの〜」の「かーーの」の

部分は付点四分音符と八分音符である。なんと2拍を3対1に分けているのだ!

(ということは1拍を2つに分けて感じているはず。)

リズム感が無いといってもほとんどは発想や認識の問題であることが多いのである。


では1拍を偶数でなく奇数で割るケースはどうであろうか?

これは案外難しい。
「津軽海峡冬景色」「東京音頭」が歌えれば
何の問題もないはずなのだが、いざ譜面を目の前にすると
1拍を平等に3つに割れないと言う人は以外に多い。



高校の頃友人が3連符がうまく取れなくて学校から駅まで
     「トマト、トマト・・・」
とつぶやきながら下校していた事がある。(私はその横で津軽海峡を口ずさんでいた)

たまにリズムがよれて「トメイト」と英語っぽくなって16分音符になったりして。

今となってはすっかり笑い話だが何事も「継続は力」なのであろう。

そのうち右足を「トマト」左足を「トメイト」で歩くと言う

芸当まで出来るようになったのである。



歩く事は無意識にできる「運動」である。頭は使わない。

考えすぎると歩みが止まってテンポが乱れる。

「考えるな!感じろ!」byブルース・リーである。

そのテンポに合わせて空いている頭の中にある<「言葉」=「音符」を当てはめる。

トレーニングによって必ずこの課程はクリアできるのだ。



もうひとつ、偶数や奇数できっちりと割り切れないリズムがある。

所謂JAZZのスウィング感である。

一般に「3連符のノリで」などと言われるが、
ちょっと違ったりもするのである。私もJAZZを始めたばかりの時にいまいち

ノリが解らなくて悩んだ事があった。どうやってもなんか全然ダサいのである。

そんな時今はプロのJAZZドラマーとして活躍している友人に相談した。彼は


「縄跳びいいよ。痩せるし」

とぼそっと一言教えてくれたのだった。

私は狐につままれた思いで早速縄跳びを購入。ガキの頃を思い出しやってみた。



なるほど。私のリズムは縄跳びでJAZZになりましたとさ。ありがとうT君。



                               つづく。



posted by 網 渦男 at 14:35| Comment(0) | TrackBack(0) | コラムの過去ログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第6回 W・ショーターのライヴを見て考える事(考えさせられた事)

先日ウェイン・ショーター大先生のコンサートを見てきた。

前日まで体調を崩し、熱と下痢に苦しんでいたのだが、ショーターからショータイ券(ぷっ!)
を頂いたので無駄にするわけにもいかず、

「もう○ンコもれてもいいか!」
くらいの覚悟で行ってきたのであった。
実際彼のステージは素晴らしすぎた!
あんなステージだったら危篤でも行くべきだと思った。

現時点でのジャズという演奏形態の行き着くべきある種の形であろうか。



つまりベースが4ビートで刻んでドラムがチンチキとやってフロントがソロを…

という従来のフォーマットではない。皆が自由に即興を奏でつつ、

その根っこというかボトムにはしっかりと安定したビートとハーモニーが進行があり、

あたかも完全に作曲されているもののごとく曲が展開していく。

無駄な音など一切無いかのようなパーフェクトなサウンド。

あのメンバーじゃなきゃできないだろうなーという演奏であった。

所謂ジャズっぽいフレーズなんぞは一片も出てこない純粋音楽。

緊張感と開放感の絶妙なバランス。(感想だけでコラムが終わってしまう勢いだ。)



思えばショーターはWRいた頃から普通のソロプレイヤーとは違うスタンスで

演奏していたように思う。

ソロスペースでは自分のフレーズを紡ぎ連ねてソロを完結させるというよりも

その瞬間瞬間にバンドのサウンドとして必要な音、またサウンドを一変させるような音を

変幻自在に発信していくかのようなプレイである。

このスタンス、考え方はマイルスバンド<にいた頃に培われたものであろうか。

マイルスもトータルなサウンドというものを常に意識してプレイしているように思われる。

サイドマンとフロントという構図でなく、バンド全体が同じ権利と責任(自由ともいえるか)

を有しソリストが何らかの指標を提示し他のメンバーがそれに影響され化学反応が起こる。

マイルスやショーターの場合はバンドが変化するだけでなく他のメンバーの可能性さえも

引き出してしまうかのような指標を提示しているように思えるのである。



まるで師匠と弟子の関係のようである。本当の弟子とは師匠に言われた事をやるだけでなく、

師匠の見ている所を見つめ、師匠の考えている事を思考し、師匠のやっている(やってきた)

ことをやるというものであろう。ショーターもマイルスのよき弟子であったが故に、

マイルスの考えていた音楽というものをショーターなりの方法論で

いま展開しているのかも知れない。

それを実現可能にするメンバーというのがやっと(2001年に)

現れたということなのかも知れない。

マイルスもあの世で「よしよし」なんて思って聴いてるんだろうか?

 

追記 

あんなステージを見てしまうとツーファイヴフレーズなんぞを

しこしこ練習している自分は

「俺は一体なにやってんだろ?」と投げ出したくなる。



   が、千里の道も一歩から、

バップのかっこいい人のCD(主にエリアレ)を無理やりだしてきて

「カッコイイ〜」と自己暗示をかけて練習に励むのであった。



                              つづく
posted by 網 渦男 at 12:14| Comment(0) | TrackBack(0) | コラムの過去ログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第5回 コンビニの是非〜今回は音楽と全く関係のない戯言です。

 最近ダイエットに余念のない筆者だが、
レッスンも終わり10時過ぎに店を閉めるとさすがに小腹がすく。
8時以降はモノを食べないようにしているが、
両隣はサイゼリアにすかいらーく、
(※現在はイタ飯屋にステーキガスト)
30秒もあるけば松屋に広島風お好み焼きいう立地であるから
誘惑には事欠かない。

胃の中は毎晩がラマダン状態である。

幾度と無く襲ってくる空腹感に屈しないため、店の鍵を閉め、
教材を作ったり、サイトの更新などの雑用をして気持ちを紛らわせている。

それでも辛い時などは

「自制心」

と筆ペンで紙に書きなぐり、
「この忍耐力があれば、将来地球的規模の飢餓に陥っても大丈夫だな。」
などと頭の中でサバイバル映画の
マッチョな主人公に
自分の顔を
アイコラしつつPCに向かうのだ。

しかし最も誘惑と葛藤するのは深夜1時を過ぎ、
ようやく仕事を終え、徒歩で帰途に着く時である。
最大の難関は自宅近くに煌々と明かりを放って陣取っている。

そう、
コンビニというやつだ。

ある夜カミサンに(※現在は筆者は独身)


「帰り道に明日の朝のバターロール買って来て。」

などとお使いを頼まれた。
ヤバイ事態だ。
どうしてもコンビニに入らなければならない。


迂闊に足を踏み入れると
「ちょっと肉まん一個だけなら…おぉ!餃子もあるではないか!!」

と先ほどの自制心がやすやすと崩れていくような
大好物のオンパレードである。

普段小銭しか持つ事を許されない私だが、
そんな時に限って、1000円札が有ったりするのだ。


夏目漱石さえが「いいんだよ。我輩を全部使って。」
とやさしく微笑みかけている。


これでは肉まんとついでにオニギリ(明太)とコーヒー牛乳に
果てはちょっと贅沢めのプリン
まで買えるではないか!
いや、そんな甘美な誘惑には負てなるものか。

お店に置いてきた「自制心」と書いた紙を必死で思い出しつつ、
危機回避の戦略を練る。

「パンのある棚は奥のレジよりだ。
弁当の棚の方にまで行かなければいいだけのことだ。」
私はパンの棚まで脇目も振らず直行し、
バターロールを手に取ってレジまで向かう。(ほぼ2m)

「もう大丈夫だ。これで代金を払い、
誘惑も振り払ってとっととコンビニを出ればいい。


そう思ってレジ前に立つとなんと先客がいた!

しかも
「おでん」をちんたらと選んでいるではないか!

予想だにしなかったまさかの


「衝動買い可能ロスタイム」
である。

これは悪魔の悪戯か?それとも天が与えた試練であろうか?


「これ以上太ってどうする?」
「おまえは豚になるつもりか?」


と必死自分に罵声を浴びせながら欲望と戦いつつ
先客に目をやるといかにも
優柔不断といった具合で
おでんのチョイスに手間取っている。

空腹感と葛藤による苛立ちをかろうじて抑えながら、

財布から1000円札を抜き出して早くも臨戦態勢を
整える。

「大丈夫だ。おまえは負けない!」

コーナーに戻った
ロッキーにセコンドのオヤジ(エイドリアンの兄)が言い放つシーンが頭をよぎる。



「お待たせしました!」の店員の声で我に帰ると

手早く
「これで。」とバターロールと1000円札を同時にカウンターに置く。

店員 
「210円になります、1000円お預かりします。」

手際よく店員がレジを弾いているその瞬間、



「あ、あの、肉まん一つ貰おうかな・・・。」



まるで多重人格であるかのように無意識に口をついて出た言葉。

ほんの一瞬の隙であった。
理性ではコントロールできない、胃袋が脳を一瞬占領したのであろうか。

狐につままれたようにバターロールと肉まんの入った袋を下げてコンビニを出る。


複雑に絡み合う罪悪感高揚感を感じながら
証拠隠滅のため肉まんをとりあえずたいらげる。

胃袋の充足感と共につのる自己嫌悪。


「コンビニさえなければ・・・」

完全なる責任転嫁である事は百も承知で、
さらに思考は駆け巡る。

 「コンビニが出来る以前と以後とで、
国民の平均体重の変遷を調べたら絶対因果関係があるに違いない!




頭の中で勝手に言いがかりをつけながら家に帰り、カミサンに一言。



「いや〜最近胃が小さくなったかな〜お腹減らなくなってきたよ。」



カミサン
「あらホント?じゃあ体重計乗ってごらん?」




「えっ」

                             つづく
posted by 網 渦男 at 12:08| Comment(1) | TrackBack(0) | コラムの過去ログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第4回 「シンプルさ」と「複雑さ」〜今回はマジメに物申す〜<

先日、日本の近い将来を決する総選挙が終わった。
マスコミで大騒ぎしていたわりには、投票率も極めて悪く、
いまだ国民の政治不信、諦めの感は拭えない状況が浮き彫りになった。

わが国の選挙は短期決戦なので、
どの党も国民に解り易い「スローガン」を掲げて
イメージ戦略を打ち出していく。

その事自体は「ツカミ」としては当然有効で、
我々の興味を一応はそそるのである。

問題はそこから先で、
「○○党は変わりました!」とか
「コレが我が党のマニフェスト!」とか

キャッチーなフレーズだけでイメージが出来上がり
中身まで浸透していっているか否かである。

今回もどれほどの人が
全ての党の「マニフェスト」に目を通したのであろうか?
景気回復、年金問題、道路問題、イラク特措法、
等々細かくチェックしていったらはっきりいって
頭がうに状態になってしまう。

使われている言葉も
普段新聞など読まない人にとっては
何を言っているか解らん外国語のようだ。

数字も「○○兆円」という桁である。
(5000円でいいからくれ!)

解る人にとっては
「なるほどそういうことか」とか
「それはマズイだろ」となるのであろうが、

解らん人にとっては

「なんか解んないけど、○○さんの方がカッコよくない?」

という判断になりうる。

政治は解りにくいのである。
その解りにくい事を
テレビ等で饒舌に語っている評論家や政治家をみると、

自分のおつむの足らなさに
「この人スゴイんかな?」
とか思ってしまう。

その発言が正しいのかデタラメなのかさえ、
解らん事の方が多かったりする。

さて、前置きが長くなったが(ここまで読んでくれた人に感謝!)、
JAZZという音楽もそんな難解さゆえのジレンマ がある。

初めてパーカーやコルトレーン(しかもAFRO BLUEとか)
なんかを聴いた時は
何をやってるのかさっぱり解らなかった。

CDを貸してくれた友達に

「なんかJAZZって難しいよね。(苦笑い付きで)」

という負け犬のような捨てゼリフを吐いてやったもんだ。

ただ、自分の耳が肥えたのか、
たまたま解りやすい演奏だったのか、
大学に入る頃、私はJAZZに心を奪われてしまったのだ。

それから現在に至るまで、段々とJAZZがわかってきて、
その目を見張るほどの芸術性の向上と発展ぶりに驚嘆している。

現在の所謂コンテンポラリーなJAZZは
その演奏技術、音楽理論において、まさに最先端をいっている。
もう行き着くとこまで来ちゃってる感がある。

が、しかし、
それがイコール聴衆の心を奪うかと言うとそうではない。

マイルスも、コルトレーンも、ショーターも、ハービーも、ロリンズも
複雑で高度な理論、技術を超越した上で、
非常に「シンプル」な(若しくはそう聴こえるような)表現方法に回帰している。

そのレベルに達した人こそが
多くの人に支持されるJAZZの巨人と言われているのかもしれない。

難しいフレーズでマニアックなプレイをしたり、
キャッチーなフレーズをとにかく連発したりと、
インプロヴィゼイション(即興)には様々な方法があるが、
私個人としては「シンプル」な語り口から
徐々にモチーフが叙情的、叙景的、叙述的に複雑化していくような、
それこそ

〜無限に拡がる「宇宙」〜

を見せてくれるようなプレイが大好きである。

意識を非日常にかっさらってくれるような
ぶっ飛んだ体験をしたくてJAZZを聴くからだ。

そして最後には非常に「シンプル」な言葉に到達して
ソロが終わってくれたりすると、
「なるほど、それが言いたかったのか。」などと
一方的に納得したりするのもたまらない満足感だ。

音を聴いていながら、
実はそのプレイヤー自身、人生観、価値観を
垣間見る思いがするのである。

こんな事を書くと、
「やっぱりJAZZって難しくて堅っ苦しいじゃんか!」

と思われてしまう危惧もあるが、
JAZZはそれでこそ、「芸術」と呼ばれるわけであって、
カラオケの印税のために作られる(娯楽的)音楽とは
根本的に違うのである。

ゆえにJAZZなんかやってしまうと食えなくなるのだ。(合掌)
それでもいいと覚悟を決めてやっているミュージシャンが
いるからこそ続いているのだ。(感謝!)

政治家もそのぐらいの気持ちでやって頂きたい。
(給料貰い過ぎじゃないか!?)
耳あたりのいい「スローガン」だけで終わらず、
「複雑」な事柄を出来るだけ「シンプル」な表現で
且つ「誠実に自分の言葉」で語って欲しい。

そして全ては「国民の為」という本来「シンプル」であるはずの目的
の故に複雑にならざるをえないのだ、ときちんと示して欲しい。

利権を守る為の複雑さなど、もうウンザリである。
勿論我々国民も意識(プラス行動)の改革、向上が必要であるが、

偉大なJAZZMENの出現により、JAZZファンが増えていっているように、
偉大な政治家が出ることによって、国民の関心を政治に向けさせて欲しいものだ。
虚像ではない実力ある政治家とJAZZMENの到来を期待したい。

                                                                         つづく
posted by 網 渦男 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | コラムの過去ログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第3回 音楽を学ぶということ。〜頑張っている人へのエールとして〜

『音』が『楽しい』と書いて『音楽』である。
こんな言葉誰が作ったのだろう?もしくは訳語であろうか?

昔の中国では音を出す為の道具を『楽』と言っていたらしい。
(要するに楽器)それがやがてその道具で演奏されるものを『楽』というようになったそうな。
(そういえば『猿楽』とかありましたね〜)

そしてさらに転じてその時の様子や感情を『楽しい』と
表現するようになったということだ。

やっぱり昔から楽しかったんですな。
ちなみに西洋でもやはり昔から『楽しい』ものというのは共通で、

『MUSIC』の語源もギリシャ神話にまで遡り、美と音楽の神『MUSE』に端を発する。
『MUSE』は7人の女神で父であるゼウスを称えるのに
音楽を奏でたり、踊ったりしたそうな。

まあ今でいうショーパブ?みたいなもんであろうか。(ちょっと違うかな)

でもって音を奏でたり、詩を詠んだりすることを
『MOUSIKE』と言うようになった。
それが後々『MUSIC』になっていくわけで、ひとを『楽しませる』、
または『楽しい時間を提供する』という意味の『AMUSE』も同じ語源である。

言うまでも無く《music salon A・MUSE》もこの『音楽』と
『楽しませる』の両義を取って、会員さんに本当に音楽を楽しんでもらい、
また他人をも楽しませるようなミュージシャンになって頂きたいと願いがあって
命名したのである。

まあ語呂もよかったし、『A』を頭に付ける事によって
「電話帳の前の方に載るんちゃうか?」
といういやらしい動機も無かった訳では無いが・・・。
(ちなみに電話帳にはカタカナでア・ミューズ ミュージックサロンと
語順もちゃっかり入れ替えて届けている)

話を『音楽』に戻そう。
私は演奏している方なので『楽しい音』というよりはむしろ
『音を楽しむ』と言う風に思っている。より正確に言えば思うようにしている

一言に『楽しむ』といっても幾つもの段階がある。
私が楽器を始めた中学生の頃は学校にブラスバンドが無かったので、
独学でただただ無茶苦茶に吹いていた気がする。
どの指で何の音が出るかも知らずに吹こうとしていたのだから、
ある意味

『向う所敵無し』

である。

頭の中だけはチェッカーズのナオユキ状態。
何とか音を探して吹けるようになったのが『ギザギザハートの子守唄』のイントロフレーズだった。

今となってはあの頃どんな指でどんな音を出していたかなど
無意識内で記憶から抹消されてしまったが、
今の自分が聴いたとしたら、卒倒モノであろう。

それでも楽しかったのだ。
レベルで言うと『音楽』をやっている気分、つもりレベルとでも言おうか。

その後高校のブラバンに入りクラリネットでクラッシックという
非常に似合わない音楽経験をするのだが、
ここで初めて音楽の奥深さを知ったように思う。

「気分、つもり」から一つ一つの音をどう表現するか?
と言う大きな課題に直面し、
思いどうり譜面を吹けるためのテクニックを磨こうと練習に励んだ。

譜面が吹けるようになる楽しさと、
それに何らかの表現を加えて演奏する楽しさである。
レベルで言えば『音学』といった感じであろうか。

大学に入り、ジャズと言う音楽に出合ったのはまさに衝撃であった。

先輩などが所謂ジャムセッションを毎日のようにやっているのであるが、
なにせ譜面なんぞ無いのである。

「紫藤も吹けよ」なんて軽く言ってくれるのであるが、
何を吹いたらいいか

さっぱり解らない。

意を決して飛び込んでみると、確実にバンドで浮きまくり、
まるで渋谷の交差点を全裸で歩かされているような辱めである。

「どうすればいいんですか」と先輩に涙目で聞くと
「お前が吹きたいように吹けばいいんだよ」と

真実ともテキトーとも取れる言葉
を頂戴し、

何日か悩んだ挙句たどり着いた結論は、
『何かを吹きたいと思っている自分自体がいねーわ。』
という致命的なものであった。愕然としたのである。

かなりア・プリオリな問題である。
プチ哲学というべきか?

-----自分は何故サックスを吹くのか?------

という問い。

中学生の頃ならば間違いなく、

女子にモテたいから

と即答したであろう。

しかし大学生ともなると
『アイデンティティー』
という単語を覚え始めているころだ。

登山家の箴言
『何故山に登るのか----そこに山があるからだ。』
なんてフレーズが脳みそに去来したりするのだが、
ゼンッゼン当てはまらんとカキ消しては悩む日々。

早くもジャズ人生挫折(第1回)といった感じだったが、
ある時ふと脳裏に

「有名なジャズマンは...一体どうやっているのだろう...。」
(森本レオの声で)

との疑問がよぎった。

すぐさまCDを買い漁っては聴きまくる日々が続いた。

そして、彼らの言葉が少しずつ理解できるようになり、
とりあえずはそれらを模倣(コピー)していった。
赤ん坊も模倣からしゃべるのだ。

何人もコピーしていくと、
吸収したもの、吸収したいけど出来ないもの、
したくないけどしちゃったもの、などで

どうやらなんとなく自分自身のボキャブラリー的なものが出来ていく。

それらがアドリヴの時に自然と引き出されてくる。考えて吹くこともあるが、
感じて吹いたりもする。
文章であったり、映像的なものであったり、感情であったりする。

そしてついにはバンドとして、ストーリーのある演奏ができあがる。-------

これを味わってしまうともうやめられないのである。
ジャズ中毒患者の出来上がりだ。
当然授業にも出ない。彼女はホッタラカシである。(気をつけよう)

それまでのレベルの『楽しさ』とは比較にならない充実感、感動である。
またそこにたどり着くまでには音楽だけに留まらず、
生き方、価値観にまで影響を与えるような貴重な経験をすることができた。

自分発見、自己啓発。

ちょっと大人になっちゃったかな?って感じである。
音楽に正面から向き合って学んでいくと必ずや、
それ以上の財産を手に入れると私は思っている。

生活一般に還元できるような何かを必ず得られるのだ。
ジレンマやスランプ、挫折しそうな時もあるかもしれない。

でもだからこそ、上達、否成長するのだと決めて、
決して『音が苦』にならず(上手い事言った?)、
地道にあせらずやりましょうと言いたい。

そんな人生自体が素晴らしいじゃないすか!と。
そういう経験こそが人に感動を与えうる音を生み出せるんじゃないか!と。

まあ気長に気楽にやりましょう!「人生楽ありゃ苦もあるさ」ですな。

                   -----今回はちょっとマジメ?------

                                                           つづく
posted by 網 渦男 at 11:55| Comment(0) | TrackBack(0) | コラムの過去ログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第2回 即興ということ。

ジャズの魅力といえば即興である。即興こそジャズの生命だ。

---------ではなぜそんなに即興が魅力的なのか?--------

先日深夜に久々にテレビをつけると、
《ダリアンガールズ》なる女の子集団が、モー娘。よろしく、歌を歌い踊っていた。
どうやら中国語で歌っている。ということは中国人であろうか、
しかも驚いた事にステージはプロレスのリングであった。
「なにかプロレスの余興かな」などと
ナメかかってタバコに火をつけ、ふと画面に目をもどすとそこには

驚愕の映像が映し出されていた。

先ほどまで仲良く歌って踊っていた女の子同士が
お互いに殴る蹴るのバトルである。(しかもタッグ)

こ、これは一体?とわが目を疑い、
動揺でコントのようにタバコをゲホゲホ咳き込んでいると、
女子プロレス特有の完璧すぎるほどにに決まる返し技や、チームプレイ。
確実にタイミングや展開をリハしているとしか考えられないショーである。

オーディエンスはベタベタな展開を予想しつつ、
待ってましたとばかりに技が決まるごとにやんややんや。

我々日本人は仮面ライダーやウルトラマン、水戸黄門といった
予定調和、お約束が大好きである。

「ドリフ大爆笑」もネタがわかっているにもかかわらず、
見てしまう。安心感、安定感である。

毎年秋になるとりっぱな稲が実って欲しいと期待する
農耕民族の性であろうか?

一方ジャズの誕生の地、アメリカはフロンティアスピリッツの国である。
そしてジャズを生み出したのはアフリカから奴隷として
連れて来られた黒人である。
彼らは狩猟民族であった。

水牛をしとめて大威張りで帰る時もあれば、
ウサギしか取れずがっくりと家路に着く時もある。

獲物の大きさはその男の価値と比例するわけだ。
マサイ族なたライオンと戦わなければならない。シビアである。

安定よりも賭けに出る。しかもまさに命がけである。
そんな民族の末裔が作った音楽がジャズなのだ。

予定調和なんぞくそ食らえ、スリルとハプニングすることを好む革新的な音楽。

最近日本も欧米化が進んだのであろうか、プロレスよりK−1、
終身雇用より転職、ベンチャーなど狩猟型の人生、価値観が浸透してきた。

めまぐるしい変化に対応できないと生き残れないという危機感が漂っている。
ジャズはまさにそんな音楽である。

毎回の演奏にジャズマンは命を掛ける。

中にはまるまる暗記したフレーズを
そのまま吹いてやろうなどと言う人もいるかも知れないが、
それでは他のミュージシャンとコミュニケーションができないしハプニングもしない。

落語で言えば古典を学び抜いた上で、大喜利で勝負である。どんな御題が出るか解らない。

歌丸さんのオチをちゃっかり頂いて笑いを取る
楽太郎などのテクもジャズでは日常茶飯事だ。

私が好きなジャズマンも二つに分かれる。
ソロを「コピーしたい」と感じる展開の読めるリックマンタイプと
ソロの先が全く予測が不可能な天性のインプロヴァイザータイプである。

当然のことながら私は後者のタイプの方がより好きである。
そうなれたらとカレコレ10年以上楽器を吹いている。

でもなかなかどうして難しい。
冒険しようとすると大抵はやってもうたである。

恥をかきたくないとビビっていると
ついお約束フレーズで切り抜けようとしている自分に気づく。

おっとそれは良くないなどと迷っていると、
結果どっちつかずの訳解らんフレーズに終止する。(自己嫌悪)

これでは完全に木久蔵さん状態である。
はやく松本一志のようになりたい。

本当の即興。
-------その境地を手に入れるまで後どれくらい修行しなければならんのだろう。

「お決まり」、「お約束」をいったん覚え、
そしてその呪縛から脱出していく。

ネタと思ったら大変だけど、
第1回で書いた通り、言葉、会話として
自然に身に付けていこうと思えばまあ、がんばれるかな。

がんばれオレ!なんか悲しくなってきたので終わり。練習しよっと。
posted by 網 渦男 at 11:53| Comment(0) | TrackBack(0) | コラムの過去ログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第1回 言葉と音楽

以下の記事は10年ほど前にア・ミューズのサイト内のコラム
『さきこら』(元祖)に掲載していったモノです。



確か小学生の頃だったか、
学校の社会見学ということで逓信博物館という所に行った。

もう20年程前なので、はっきり記憶にないのだけども
確か「大昔の伝達手段」みたいなコーナーがあり、
なにやら原始人らしい人々が太鼓を叩いている絵が展示されていた。

山火事か何かを知らせていたのであろうか。
原始の時代は声の届かない距離は太鼓や何かを打ち鳴らして
信号のように伝えていたらしい。
(原始時代に太鼓作れたの?といった疑問は小学生の頃は湧かなかった。)

その後打楽器だけでなく、弦楽器やほら貝の様な管楽器も発達し、
緊急時だけでなく、「猪捕れたぞー」なんていううれしい時や、
お祝いや、お祭りごとなどの時に楽器が使われていったそうだ。

人が「感情を楽器で表現し始めた」瞬間。
それは「文化」の誕生とも言えるのだろうか。

ところで私たちが小中高と学校で学んだ音楽はどんなものだったろう。
童謡や世界各国の民謡、最近は歌謡曲まで教科書に載っているそうだ。
(ここで印税の事など想像してしまった自分も悲しい。)

私自身は教科書に載っている曲などは
あまり興味がなかったように思う。

合唱などやられた日にゃ音痴ばればれが嫌で、斜に構えていたっけ。
しかも譜面どうりに歌ったり、
演奏したりしなくてはいけないというのが、
固っくるしくてあまり性に合わない。

そんなんで音楽(学校の)が嫌いになったりするひとも多いのではないか。
なんかストレスが溜まるのである。------なぜか??????--------。

「音楽」はそもそも「コミュニケーション」だったのではないかと思ってみる。

それを誰かに演奏させてそのできばえ云々が評価される。
作品が対象ということなのだ。
小説家やエッセイストみたいな感じである。

でも音楽は「聴く」という受動的行為よりも、
「やる」という積極的行為のほうが、俄然楽しい。(と思う)

「トムソーヤの冒険」を読むのもいいが、
自分が実際に山や川を探検していく方がワクワクする。

つまりリアリティである。

山登りも川釣りも自然との対話であろう。
演奏とは音による対話ではなかろうか。

自分との対話、共演者との対話、そして聴いてくれている人との対話。

音なんてたったの12個。
その組み合わせで伝えられる事は無限である。(んー深い)

世界最小単位の言語。
それをマスターするのはいつになるのであろうか。(んー辛い)

でもやめられない。
学校でも作曲家の事ばかり教えないで、もっと演奏家のことや、
演奏それ自体の楽しさにについても教えればいいのにと思っている。

君は「ド」で、君は「ミ」で、君は「ソ」で君は「シb」、
せ〜ので「じゃぁ〜ん」・・イカス〜!…みたいな。

算数のテストできなかった悔しさを音で表現してみよう!みたいな。

でもそんなことすると、ミュージシャン志望が激増して、
世の中にフリーターが蔓延して、日本経済が危うくなるか?
一億総ミュージシャン宣言なんて、やばいやばい。
やっぱりこんなやくざな商売は一部の変わり者に任せておけばいいのかも。
「趣味でやるのが一番幸せ」ということで、
ア・ミューズの会員さんは幸せです。(か?)
                             つづく。
posted by 網 渦男 at 11:50| Comment(0) | TrackBack(0) | コラムの過去ログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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